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□ 上野戦争時の弾痕
先日立ち寄った「うさぎやCAFÉ」の前にある学校が「黒門小学校」という名前だったのが気になって調べだしたら、このあたりの旧町名が「黒門町」だったからという単純な理由だった。だけどなぜこのあたりが黒門町だったかというと、上野寛永寺の総門、通称「黒門」があったからだという。寛永寺には黒門が2つあって、明治新政府軍と彰義隊が激しい戦いを繰り広げた上野戦争の弾痕を残したまま二つとも現在でも移設されて残っていることがわかった。寛永寺本坊(現東京国立博物館)の表門だった黒門は今でも上野の輪王殿の門としてひっそり置かれている。
あらためて戦地としての上野の山を散策し、この黒門に近づいてみるとあちこちに穴が空いていて、それが弾痕だとわかるとにわかに生々しく感じられてくる。大きな弾痕は新政府軍に圧倒的な攻撃力をもたらしたいうアームストロング砲のものだろうか。この黒門のまわりは彰義隊の血の海だったという目撃談が残されている。
ちなみに賊軍として放置された彰義隊の遺体を南千住の円通寺の住職が処罰覚悟で供養・埋葬した縁で、もうひとつの黒門(総門)は40年経って円通寺に移設されている。
□ 寛永寺輪王殿に移設された黒門(寛永寺 旧本坊表門)
□ 黒門の近くでみつけた翅がボロボロになったオオミズアオ
□ 銅灯篭 (寛永寺)